
胸中山水美山盆景図
本美濃紙(美濃竹紙工房)/墨/岩絵具/大﨑膠

胸中山水朝霞盆景図
月山楮紙(地楮、雪晒し、木灰煮、寒ぐれ、板干し)/墨/岩絵具/大﨑膠
金子朋樹
紙と風土
私はしばしば山に登る。峠のある所を迎える時、古は多くの人々がやっとの思いで峠越えして旅していたことを想像する。現代の文明によって私たちの空間感覚は限りなくフラットなものになったが、かつてはそうでは無く、ひだ連なるレリーフ状のものだった。民俗学者の野本寛一は著書の中で「峠は"晴れ"の場であった」と記し、移動の苦労ゆえに峠は特別なもの、褻に対して晴れであったことを示唆している。それゆえ、現代に生きる私はこの峠越えという所作が無くなったことで「時間」を得た一方、本来ならば体感することのできた"何か"を失ったであろうことを想う。時代を経ていくごとに利便性、効率性が高まっていく私たちの生活。しかし、そのプロセスに反比例するように、このように私たちの生活の中で"何か"が失われているのだろう。
私が絵画の制作で扱うものの多くは、"誰か"の手で丹精込めて作られた画材、素材ばかりだ。しかし、この二十〜三十年あまり、様々な理由によって画材、素材の状況はさらに大きく変化している。時流の変化と言われればそれまでだが、現実に失われかけているものも多くある現在、私の選ぶ画材と素材の背景を透かし視た時に、素材づくりに関わる人たちの現場を自分の目で見ることの必要性を感じずにはいられなかった。
私たちには日々の暮らし、営為があり、そして芸術がある。それは素材づくりに関わる人たちも同様だろう。それぞれの環境、気候、風土、文化の中での生活があるからこそ、私たちが手にするものが生まれている。自らが手にする絵画素材の生産現場に直接赴くことで何が見えてくるのだろうか。この時代だからこその大切な何かを見つめ直すことが出来るのではないのか。現場の空気に触れながら今一度本質を問う姿勢を基底に、自身の視座を拡張したい。これが、私を『耕/たがへし』の立ち上げへと突き動かした理由でもある。
昨夏、大子那須楮生産農家 齋藤邦彦さんの「楮の芽掻き作業」に赴いたことは未だ記憶に新しい。『耕/たがへし』の第一回目の活動として、芽掻き作業手伝いと同時に楮生産の実際を目にするべくメンバーと共に活動を行なった。
芽掻きは、冬場に行われる楮の蒸し剥ぎや表皮取りを円滑に行なうため、暑い夏場に脇芽を摘む作業だ。紙作りの工程にも影響する大事な作業だが、これが想像以上に過酷なものだった。背丈以上に成長した楮畑の中に入って作業を行うわけだが、晩夏の日差しを避けられたかと思いきや、風の通らない楮の狭間はかなりの蒸した空間で、あっという間に体内の水分が失われていくように感じられた。
脇芽を摘む際、自分の背丈より遥かに高い楮をぐいっと手前に倒すようにして引っ張り、鋏を入れる。楮は弓のようにしなるが、不思議なことに折れる気配が無い。その繊維のしなやかさが、結晶とも言うべき「紙」となった時のしなやかさに繋がるのだろうか。そんなことを思いながらまた鋏を入れる。パチンと音がし、枝葉が落ちる。鋏を入れた箇所からは、白い樹液が滴り落ちる。まさに楮が生きていることの証を感受して、そしてまた次の脇芽を探すということを繰り返していった。
私が特に記憶に残っていること、それは齋藤さんが楮について語って下さった際、齋藤さんの手が皮剥きを終え、乾燥された楮の束にそっと触れた時だ。優しく、慈しむかのような齋藤さんの手。それは、途方も無いほどの長い時間、楮と触れてきたからこその所作のようにも思え、月並みな言い方だが私にとって崇高なものとして刻まれた瞬間だった。
芽掻き作業以降、紙を広げるとあの時の香り、感触を思い出す。それが絵画の中に影響することは無いだろうが、紙に対する意識は異なるものとなった。
大崎膠試用所感
大﨑哲生さんが作った膠。制作において膠が必要不可欠な私にとって、使う理由はそれだけで充分だ。
膠は接着性と分散性を鑑みて使用する際の季節、環境によって微妙な調整を行う。今は制作工程のどの段階か、礬水か元膠か。画材や工程段階が異なる時も同じだ。故に、膠をその時々で調整すればいい。
動物たちのリキッド、いわゆる体液から造られている膠を使うことで、自然の営為、循環、そして恩恵に想いを馳せざるを得ない。そうして自己の絵画表現を行なうことの意義にさらに揺さ振りをかけたい。